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2016年11月06日

40年後の始まり

ここ数日、僕の足は地面から浮いたままだ。

17歳の時、衝撃的な音楽との出会いがあった。ラヴィ・シャンカールの「日本へ捧げる曲」という。

身近な家族だった祖父との死別も重なり、あの頃半年ぐらい泣いていたのではないだろうか。泣く理由なんてない、言葉にならない世界のなかでひとりさまよっていた。

いや、一つだけ言葉にできることがある。アジアだ。アジアを思って泣いていたと言えば、大体落ち着く。それから程なくして沖縄へ向かった。

孤独を好んだのは、今思えば、子供のころから言葉にならない世界で一人遊びをしていたからかもしれない。音楽的体験も、なかなか人と共有できないでいた。

その衝撃が突然やって来た。3日前のことだ。

ベーシストの日野jino賢二によるセッションバンドとの共演ライブで、彼が持って来た曲の中にあった。彼らのリハーサルの時から、僕はそれを聴きながら泣いていた。

本番を終えて彼に聞くと
「友達が作った曲なんだ。いい曲でしよ! 譜面あげるよ!」
彼から貰うより早く、僕は写メを撮っていた。コード譜でメロディーが書かれていない。でも十分だ。彼のアルバムにも入っているし、動画でも検索できる。

動画を調べていると、作曲者は黒人だ。きちんとレコーディングされた動画がないところをみると、まだスケッチの段階なのかもしれない。

翌日にはすぐ譜面を起こした。書きながらやはり涙が出て来る。何の説明もいらない。彼の思いがストレートに入ってくる。その向こう側に、アメリカ黒人の歴史や、それを背負って生きている今の若い黒人の思いまで伝わってくる。誇張でも何でもない。不思議だけど音楽ってそうなんだ。

ありがたいことに、この曲一つで、あまり興味の湧かなかったヒップホップやラップなど近年の音楽世界が自分の視界に一気に入ってきた。抱えきれないほどの悲しみと、弱いものへの慈しみ。こんなものが入り交じって、今度も言葉にできない。

アジアをテーマに沖縄を目指した僕は、沖縄に来たとたん、何故かジャズばかりやっている。その理由は今も答えられないままだ。でも、あれから40年が経ち、ここにきてアフリカ系アメリカ人の魂に触れたことは、僕にとって大きな意味がある。

僕はこの曲を自分の持ち歌にしたい。生涯演奏し続けたい。

孤独を好む子供が老境にさしかかった今、気がつくと周囲にはたくさんの仲間がいる。彼らにこの譜面を渡そう。いろんなスタイルで演奏しよう。この曲を沖縄から世界に広めよう。僕らはアジア・アフリカだ!


  


Posted by URUMANINGEN at 23:23Comments(0)

2014年04月01日

34年前の今日~4月1日

1980年4月1日 19歳
2014年4月1日

沖縄に来て2日目。最初に世話してくださった首里の知念さん宅で、最初の朝を迎えた。
奥さんが探してくれた独身ハイムの大家さんへ挨拶に行き、到着した荷物を6畳の部屋でほどいた。

今日のことだったかどうかははっきりしないが、琉球大学の入学までにしたことはたくさんあった。

日曜雑貨を揃えるため、バスケットボールが3個入りそうなバッグを空にして大きな平和通りに行った。日曜日なのだろう、歩行者天国だった。

最初に「なみさと」に入ったのは知念さんの勧めだったからか。その足ですぐ先にある木造二階建の雑貨屋「呉屋商会」を見つけた。白い建物がいたく気に入り、女性店員も美しかった。そこで残りの物を買った。小さなまな板、硝子のコップ、煙草は吸わなかったが、近い将来僕を訪れてくれるだろうまだ見ぬ先輩のための硝子の灰皿も揃えた。と書きながら、店の匂いを今思い出した。

とにかく、自分が暮らすための生活用品を自分の意志で買い揃えるのだから、楽しくて仕方ないに決まっている。学生の身だから贅沢品は一切ないが、その一つひとつに自分の意志を込めることができた。

その時に買った物の多くは、独身時代のかなり長い間、ともに日々を付き合い、愛着を感じた。

その時期に買った小型トランジスタラジオは、僕に多くの沖縄を学ばせてくれた。当時は放送の半分ぐらいがウチナーグチの民謡番組だったのではないか、と思うほど多かった。意味はさっぱり分からないが、出演者たちがが会話の中でおかしく笑っているのを聞きながら、分からないのは悔しいが、そのうち全部分かってやるからな、と思った。

民謡も魅力的だった。西洋音階から大きく外れたその旋法に、大いに東南アジアを感じ、本当に遠くへ来たことを感じさせた。

ラジオから流れる音はすべて一瞬で消え去ってしまうが、すべてを記録しておきたいほど宝物の山だった。現に、民謡番組をカセットテープに録音し、何度も聴いたこともあった。金城実や上原直彦はこの早い時期に覚えた。



呉屋商会で大方の買い物を済ませ、バッグの中をガチャガチャさせながら国際通りを安里方向に歩く。何か飲みたい。左手の建物2階に喫茶店を見つけた。記憶が正しければ名前はアルバトロス。

暗い店に入ると、満席。だけど僕と同い年ぐらいの女の子が一人だけ座っている席の向かいが空いている。1980年の僕の感覚では、普通に相席しても問題ない場面だった。

「ここ座ってもいいですか」
「え? あ、はい」

意外という表情。こいつ何考えてるの、みたいな警戒心が感じ取れた。
いや、混んでるんだから当然でしょ、という認識が僕だけだったことは、もうしばらくして判ったことだった。

僕が飲み物を口にすると同時くらいに、彼女は席を立ってしまった。
それ以来僕は、大衆食堂ならいざ知らず、沖縄で喫茶店の相席はしないようになった。そのうち喫茶店もなくなってしまった。

店を出ると、日が傾きかけていた。安里三叉路に向かって歩いているうち、いきなり強い雨が降りだした。これがスコールか、などと思いながら三叉路へと走り、タクシーを拾った。
「沖縄に来たばかりなんですが、夕方にこうして降るのはよくあるんですか」と聞いたが、返事は玉虫色だったような気がする。

浮かれて、のぼせた34年前の今日の僕がいる。すべてに驚き、喜び、つまずいては喜んでいる僕がいる。その感覚を今、少しだけ思い出した。


  


Posted by URUMANINGEN at 00:00Comments(0)34年前の今日

2014年03月31日

34年前の今日~3月31日

1980年3月31日 19歳
2014年3月31日

12年間住んだ千葉の家を離れ、今日は朝早くから身支度し、沖縄に行く準備をした。

親元を長く離れる経験は今までない。未知の世界。でも不安はない。前しか見ていなかった。

両親が見送る中、玄関を開けて外に出ると、大粒のぼた雪が面白いほど大降りに降っていた。3月も末だというのに珍しい。最後にお前に雪を見せてくれたな、と父が呟いた。

一人っ子で喘息持ち、生まれてこの方、何をするにも親や家族がお膳立てしてくれた。かなりの贅沢をさせてもらったし、好きなことはさせるチャンスもたくさんくれた。それが自分にとってかなりずれている時も、嫌な顔はせず、いつも「ありがとう」とだけ言っていた。ひどい息子である。反抗期もあったが、抗うということはそれほどしなかったように思う。

半面、このままでは自分を見失ったまま大人になってしまうのではないか、親の言うまま、親の言うことをいつも飲み込むだけの生き方しかできないのではないかと、自分の将来が心配だった。

門の前で見送る両親を背に、悪いけどウキウキした気持ちで駅へと歩いた。
といっても、毎月親が欠かさず仕送りし、父は「アルバイトする必要ないから勉強してこい」という主義だったので、自立とは正反対、脛かじりっぱなしの生活には違いない。小田実の本の背表紙「何でも見てやろう」の言葉を何度か思い出しながら飛行機に乗った。
人の背丈ほどあるシタールも、当時は手荷物で普通に積んでくれた。全日空のスカイメイトも、受験時から持っていた。



受験生としてついこの間降り立ったばかりの那覇空港に、今日は住人として降り立つ。もう慣れたつもりでいた。ここからはもう親の手を離れて自分の意志で。到着ロビーではあのタクシーの客引きの誰かにでも捕まっていこう…

しかし、タクシーより先に、別の人が僕を待ち構えていた。

到着ロビーに、手書きで僕の名前を書いたカードを広げて待っていた夫婦らしき姿を見つけた。この人たちは誰? なぜ僕の名前を持っているの?

不思議なまま「僕です」と近づくと、「おめでとう。ようこそ沖縄へ」と歓迎してくれている。「サトヤマです」と聞こえたが、心当たりがない。知らないのは僕だけで、誰かがこの人たちに迎えさせる手筈ができていたのか? それとも僕が何かの段取りを聞き忘れたのか?

何故かその時僕は、分かっていたようなふりをして、夫婦の車に荷物を積み、一緒に乗り込んだ。この「分かっているふり」は、いつから身に付いた癖なのか、34年経ってもなかなか抜けない。

「どうですか、暑いでしょ」「はい暑いですね」
日射しが強く感じた。
丸っきり知らない人同士の会話というわけではない。この親切なお二人と自分の関係をどうやって探り出そうか、車の中でそんなことばかり考えていた。

ちょうど昼時。車が着いた先は、決めていたのだろう。辻町の「ジャッキーステーキハウス」。あの鉄板焼きステーキをご馳走してくれた。ここまでお世話になるともう「あなた方は誰ですか」とは絶対に聞けない。どうしよう。
しかし、きっかけが向こうから来た。
「北村は時々お家に伺っていますか?」。
「北村さん…ああ、はい」
確か父の友人で、近所に家があり、いつも和服姿の女性「北村さん」の姿が思い浮かんだ。この方は北村さんの娘で、沖縄に嫁いだらしいことがなんとなく分かってきた。
ただし、僕は自分の家と北村さんとの関係をよく知らない。今もよく分かっていない。北村さんの娘が沖縄に嫁いだことも、この時初めて知った。でも僕がそれを知らないことが分かったら、両家にとって良くないと思い、知っているふりをした。
「サトヤマ」夫妻がこうして僕を迎える段取りをしてくださった経緯など、細かいことは結局聞けずじまいだった。

それからは話が弾んだ。ご主人は音楽教師でジュニアオーケストラを引率していること、奥さんはバイオリンの指導者であることが分かった。僕がバイオリンを習っていることも知っていた。その後、県内初の子どもたちの弦楽アンサンブル「中城ジュニアオーケストラ」団長の佐渡山安信・真理夫妻だったことが分かり、その活躍に驚いた。

佐渡山さんの車で、僕の受け入れをしてくださる首里の知念さん宅へ行き、3日間ほどそこへお世話になる。木造の古い家で、「貧乏だから何もお構いできないけど、心は尽くすさねー」と、言った通り、心を尽くしてくださった。

知念さん夫婦は、最初にウチナーグチを教えてくれた人になった。「アミ」は雨、飴は「アミグヮー」。いくつかの言葉を教わった。

夕飯は、決して豪華ではなかったが、とても心のこもったものだった。碗にジュウシイが入っていておいしかった。その碗は厚手の壺屋焼で、とても気に入り、アパート暮らしを始めるにあたって、ぜひこれを貸してほしいと無理やり頼み込み、借りた。それ以来、この碗は30年近く僕の毎日の食事で飯を盛ってきたが、とうとう返すことができないまま、ある日自宅で割れた姿を見たときは、辛かった。


  


Posted by URUMANINGEN at 22:00Comments(0)34年前の今日

2014年03月24日

旋律の言語化 その1 ♭3→1

♭3→1

説得して1に落ち着かせる
言ってきかせる
諭されて思いとどまる

本来ならもう少しどこかに動きたい♭3だったが、敬愛する師匠に説得され、1に落ち着く。

そのため、♭3から降りてきた1は完全に終止した感覚にならず、歌いたいエネルギーを残したままだ。

落ち着きのない子が、枕元で母の子守唄を聴いて眠る光景に似る。



他の音列でこの下降を使うと、強圧的、弾圧、押し込め、無理強い、となる。ベートーベン第5の1楽章。

  


Posted by URUMANINGEN at 23:00Comments(0)旋律の言語化

2014年03月17日

34年前の今日~3月17日

1980年3月17日 19歳
2014年3月17日

沖縄へ旅立つ日が数えられるほどに迫ってくる。その日をわくわくしながら待っていたのは、ひょっとしたら家族の中で僕だけだったのではなかったか。

当時、前年に祖父が他界し、祖母は痴ほう症が入って6年目。父は出版社を独立させてやはり6年目ほど。母は眼科勤務を辞めていたと思う。

「金の心配はするな」が父の口癖だったが、本当のところは分からない。母は沖縄行きをあまり喜んでいなかったように思うが、父が認めたのだから仕方ないと思っていたのかもしれない。

後で母が「あなたはあんなにおばあちゃんを大事にしていたのに、おばあちゃんを置いて行くとは思わなかった」と言っていた。しかしその時の僕は祖母の面倒と自分の将来を天秤にかけて考えることすら思いつかなかった。前しか見ていなかった。

沖縄に行く第一の目的は、アジアの音楽を網羅する夢だった。当時傾倒していた音楽の一つがラヴィ・シャンカールで、シタールを弾きこなしてみたかった。

高校3年だったか浪人時代だったか、高島屋か三越でインド物産展があり、そこに掛かっていたシタールを初めて見て、母に強引にねだって買ってもらった。当時12万円。今考えても恐ろしい贅沢をさせてもらった。「出世払いね」の約束は、とうとう果たせなかった。

本屋に注文して買ったラヴィ・シャンカールの自伝には、簡潔にシタールの弾き方が載っていて、見よう見まねで弾いていたが、本だけでは合っているかどうかも分からない。

沖縄行きも近いある日、何かの用事で一人、たしか池袋西武に行ったとき、日本人のシタール奏者がイベントホールで演奏するというので向かった。

演奏していたのは若林忠宏。白い衣装を着て、ヒッピーみたいに髪を伸ばし、髭をはやし、ジョン・レノンみたいな丸い眼鏡をかけていた。

演奏会では、僕が当時持っていたレコードと同じラーガも弾いていたし、話も分かりやすく、この人なら相談できると思い、演奏会が終わってから声をかけた。

「実は僕、この4月から沖縄に行くのですが、その前に基本的なシタールの弾き方を覚えたい。1回だけ教えてくれませんか」

無理なお願いだということは十分わかっていた。インド音楽のいろはも知らない子供から、いきなりシタールを、たった1日で仕込める訳がない。しかし、若林忠宏さんはOKしてくれた。そして「ここにおいで」と一枚の名刺だったか、とにかく何かの店らしい紙をくれた。「羅宇屋 吉祥寺」とあった。



数日後、その紙を握りしめて国鉄吉祥寺駅を降り、知らない町を歩いた。一角の地下に「羅宇屋」があった。一見して何屋だか分からない。そこだけ異空間で、階段を降りていくと西アジアっぽい音楽が流れ、インド香の匂いがする。カレーみたいな匂いもする。しかもあちこちに手作りと思われる弦楽器がぶら下げてある。部屋の仕切りは壁ではなく天幕みたいに布がかかっている。もう自分の世界が天幕の向こうに待っているようだった。しかし何屋なんだここは。

夢の中から出てきたような女性が「いらっしゃいませ」と応対したような気がする。若林さんはいますか、と尋ねると、一つの天幕の中へ案内された。

そこには、絶えずニコニコした若林さんが座っていた。どうやらこの部屋はシタール教室らしい。

その部屋で僕は、構え方、手首の使い方、運指、手入れの仕方、やってはいけないことなど、3時間ぐらいかけて教わったような気がするが、実際はもっと短かったかもしれない。とにかくそこで教わったことが僕のシタールの全てとなった。あとはレコードの音を聴きながら模索していくしかない。

レッスン料は、たしか払ってないような気がする。沖縄に行って弦が切れたことに備えて、弦のセットを買い、そこでカレーも食べたような気がする。思い返すとオタクの世界だが、当時、周囲の誰も理解してくれない自分が、この店なら理解してくれる人がいると思ったことは確かだ。

その日から多分2週間かそこらで、僕は人の背丈ほどあるシタールのケースを抱え、飛行機に乗り込むことになるのだった。

その数年後、僕は2本目のシタールを手に入れることになるのだか、母に買ってもらったその最初のシタールは、学生時代から毎日のように通うようになる店に飾られ、30年が過ぎようとしている。

若林さんとのお付き合いは、長い長いブランクの末、facebookによってつい最近再開するのだが、34年後の彼は僕のことを忘れていた。当然である。


  


Posted by URUMANINGEN at 00:00Comments(0)34年前の今日

2014年03月09日

34年前の今日~3月9日

1980年3月9日 19歳
2014年3月9日

琉球大学の合格発表日と、受かっていた関東学院大学(だったか)の入学金支払い期限が同じ日だった。琉球大学に受かっていればそこの入学金を払う必要はない。しかし落ちたことを考えて、父は入学金を下ろして準備してくれていた。かなりの額だ。
問題は、琉球大学の合格発表を見に行けないこと。貼り出し時間と入学金の支払い期限の時間の間が、数時間しかない。

沖縄に受験に行った時、試験会場では合格発表の電話連絡サービスを学生がアルバイトでやっていた。彼に受験番号と千円を渡したが、それが何時に掛かってくるかが問題だった。

受験から帰ってきた僕に父は、なぜ時間の約束をしておかなかったかと叱った。僕は「たぶん大丈夫」としか言えなかった。

父の仕事は「数理科学」の編集だったので、数学の先生を通じてだったか直接だったか、琉球大学の先生に僕の合否を見てくれるよう頼んだ。
僕も市川高校の知念先生に電話を入れて事情を話し、実家にいる読谷の家族にお願いできないか聞いたが、読谷から首里までは遠いから不可能、との返事。

結局、父が頼んだ琉球大学の先生による連絡が一番早く、そこで安心した。学生からの連絡でも間に合ったが、それだけでは信用できず、ギリギリまで焦っただろう。

「さてお前、天理と琉球、どっちに行きたいか」
その夜、父は僕に最終意志を聞いた。即座に「沖縄に行きたい」と返事した。父は「そうかー、お前に朝鮮語を勉強して欲しかったけどなー」父はかなり残念そうだった。

息子に、自分の故郷・朝鮮の言葉を使えるようになって欲しいという気持ちも十分分かっていたし、そこからアジアを見ることもできるだろうとも思った。しかし、朝鮮語を習った先、僕が歩む道は、父がレールを敷くことになるだろう。それはいやだった。

沖縄という、父の手の届かない場所で、一からやってみたかった。何より、受験のとき腕に止まったウリミバエのことや、糸満だったかの土産品店で見た僕と同年代くらいの女の子の、初めて見る顔立ちなどが思い出され、心は沖縄に向かっていた。少々の不便など気にしない、父の知らない世界で一人でやってみたいという気持ちで一杯だった。

「あっちでは英語をしっかりやっておけよ」
沖縄に来てまずそういうことはなかったし、大きな誤解だということはすぐに分かったが、僕も父も、長い占領下にあった沖縄は英語が公用語だと勘違いしていた。

本土に行ったウチナーンチュが周りから「英語得意なんでしょ」と言われて憤慨する話をよく聞いたが、当時の日本人の沖縄への認識はその程度だった。
僕も、沖縄へ行ったら沖縄語と英語という言葉の壁に挑戦する心積もりでいた。



荷造りが始まった。僕の荷物はそれは多く、木枠の荷物を2つ船便に出した。特に楽器が多かった。ステレオセットも、スピーカーだけ置いて梱包した。

沖縄に親戚はいなかったが、どんなつてだったか、Kさんという女性が、親戚の首里在住の知念さんを紹介してくれ、知念さんが、琉大なら近くがいいだろうと首里付近のアパートを2つ探してくれた。一つはバストイレ共同の学生用アパート、一つはスナックの2階。僕はスナックの上の方が良さそうだと思ったが、風紀を考えたのか知念さんは学生用アパートの方を勧めて結局そこになった。

一方、母の俳句の先生だったか、「沖縄俳句歳時記」の著者・小熊一人氏と連絡を取ってくれ、沖縄の風土や生活について電話口で聞くことになり、メモを準備して電話をかけた。

受話器から聞こえる小熊氏の声は今でも覚えている。気さくな話し方で、沖縄のことなら何でも聞きなさいという感じだった。多分気候や着るもの、食べ物のことだったろう。おいしい食べ物として「ゴヤチャンプル」とメモしたのをはっきり覚えている。


  


Posted by URUMANINGEN at 00:00Comments(0)34年前の今日

2014年03月03日

34年前の今日~3月3日

1980年3月3日 19歳
2014年3月3日

試験を終えた日はグランドキャッスルに泊まり、翌朝、予定通りタクシーで南部一周することにした。

運転手はパンチのお兄さんだったような気がする。あまり話し掛けてくる人ではない。それに、僕は沖縄の人に話しかけられることが少し怖かった。ヤマトの人間が琉球大学に行くことをどう感じるのか、全く読めない。お前のようなやつが沖縄に来てもろくなことはないと言われたらどうしよう、という怖さが少しだけあった。富村順一の本を読んでいたせいかもしれない。

守礼門で記念撮影しない、玉泉洞でコブラとマングースの決闘を見て感動しない、ガラス村に行ってガラスを買わない、つまらない客だろうなと自分で思った。サトウキビをもらい、言われるがままにかじってみたが、生臭く、吐きそうになった。

どこかの土産品店に入ったときだっただろうか。店員に同年代くらいの女の子の姿があった。背は低く、浅黒く、瞳が大きく、それまでの僕の女性に対する美しさの感覚をひっくり返すような出会いだった。話し言葉も少なく、はにかんでいるようにも見えた。純朴にも映った。何より、笑顔が美しかった。
もう顔立ちも忘れてしまったが、ナイチの女性にはない健康的な美しさがあるのだと学んだ。また会えるかなとも思った。



強烈だったのは、摩文仁の花売りオバサンだった。タクシーを降りたとたん「ねーもう悲しいねー」とかいって花束を無理やり渡され、お金を払わされた。このタイプの商売は、秋葉原でのアンケートと称した架空のチケット売り、これは断固支払いを拒否して免れたが、中学生の時だったか本八幡駅で恵まれない子のためにと高値で買わされたボールペン、そして昨日の那覇空港での客引きに次いで人生4回目だ。沖縄の確率が高すぎる。俄然警戒心でいっぱいになった。

それにだ、花束をもらったはいいが、僕は何県の何の塔にこの花束をたむければいいのか。千葉に住んでいるからと、千葉の塔を最初は探したが、千葉に亡くなった親戚はいないし、かといって東京でもなし。どちらかといえば沖縄戦で亡くなった人を弔いたいが、どこにあるのか分からない。群立するナントカの塔の間の道をトボトボ歩き、牛島中将の自決地まで行き、引き返して帰り道もトボトボと。結局、花をどこに置いたのかも忘れてしまった。

空港でのタクシーの強引な客引きも、あの花売りオバサンも、その後新聞で何度も叩かれ数年で姿を消した。この手の商売には警戒していたためか、なかなか遭わなかったが、一度だけ、大学2年のころ国際通りを歩いていて複数の客引き男性に腕を取られ、店に連れ込まれようとしたのを全力で振り切ったことがあるが、この話は来年以降になる。また丸国マーケットに入ったら何か買わない限りオバチャンに付きまとわれて出られないという伝説だとか、最近の松山界隈の夜の客引き問題とかは、そのまた未来の出来事である。


  


Posted by URUMANINGEN at 00:00Comments(0)34年前の今日

2014年03月02日

34年前の今日~3月2日

1980年3月2日 19歳
2014年3月2日

試験前日。
機内のスクリーンでは、沖縄紹介のビデオが流れていた。観光スポットや各地の紹介がされていたが、そこで「沖縄市」という地名を初めて知った。沖縄市ってどこだろう。僕が見ていた沖縄本島地図には、那覇市、コザ市、石川市ぐらいしか載っていなかった。コザが改名されたと知ったのは学生になってからだった。

那覇空港に着く。タクシーの客引きに驚く。国際通り経由で都ホテルへ。たしか昼の早い時間にチェックインして、琉球大学の下見へ。地理が分からないのでタクシーに乗ったと思う。

大学入口の横には見たことのある門が。琉装の女性が3人ぐらい。えっ、これが守礼門なの、ぐらいあっさりと立っていた。

大学入口の脇には、ヘルメットにサングラス、マスク姿の学生がひとり直立不動で立っていた。怖いという記憶があるので角材か何かも手にしていたかもしれない。危険な大学なのかなと少し疑った。

今まで受験のために訪れた他の大学とはたたずまいが違う。それほど大きくない建物がバラバラにあって一貫性がなく、どの建物が何なのか分からない。首里城跡そのものに大学が立っていることも後で知った。

都ホテルの部屋からは北が見渡せた。坂道を走るオートバイが昼間なのに点灯しているのを意外に思った。斜め下の道向かいに「喜納建設マンション」が見え、夜はその1階の「お食事の店」へ行ってみた。「沖縄そば」というそばがあることを初めて知り、注文した。おいしくなかった。これはそばじゃないと思ったし、観光のために最近できたメニューなのだろう、こんなものは今後食べないぞ、と正直思った。



翌朝、早く起きて窓の外を見ると、喜納建設ビルが雨で濡れていた。いや、受験時は晴れていたから、前日の間違いだったかもしれない。同じ窓から違う天気を見たのだけは覚えている。

チェックアウト時にホテルに荷物を置かせてもらい、沖縄国際大学へ。多分この時もタクシーだっただろう。「ガニコ」と読んだ我如古の左カーブを曲がった覚えがある。

小論文のテーマは「開発について」という漠然としたものだ。別紙にアウトラインを書いて清書した。沖縄に来て見た街のつくりを本土のそれと比較し、「道路周辺型まちづくり」と「駅周辺型まちづくり」に対比してみせた。その時は自信満々だったが、今になってみれば何と的外れだったか恥ずかしい。

試験を終えて外へ出てみると、晴れていた。日差しを受け、シャツにベスト姿が暑く感じるほどだった。空気が暖かかった。すべての試験を終えた安堵もあったのかもしれない、大学の円形ベンチに座って、のどかな時間を過ごしていた。

すると、僕の左腕に、見たこともない虫が止まった。袖をまくっていたのだろう、そこにハエのような、ハチのような、胴は茶色くて黄色い筋のある、羽は透明で、でもハエのように折り畳まずに広げたままの姿はハチのようだ。その不思議な虫が、僕を警戒することなく、腕に生えた毛にたびたび引っ掛かりながら可愛らしく歩いている。

その時、僕は沖縄に来ることを決めた。僕には沖縄の血が流れていない。沖縄の歴史も言葉も知らない。だけどこの見たこともない虫は僕に止まってくれた。それだけで十分だった。そしてこの虫の風貌に、ここでは新しいたくさんの出会いがあると期待させた。「期待に胸が膨らむ」なんてよく使う言葉だが、そうあるものではない。でも今日はまさにそんな言葉がぴったりだった。試験は受かるだろう。沖縄に行くことを父に伝えよう。同時に、大学4年を終えたら沖縄から帰るという気がしないことも、すでに感じていた。

その虫がウリミバエであると知ったのは、だいぶ後になってからだった。



  


Posted by URUMANINGEN at 21:22Comments(0)34年前の今日

2014年02月28日

34年前の今日~2月28日

1980年2月28日 19歳
2014年2月28日

浪人の僕は代々木ゼミナールに通わせてもらった。確か試験直前まで通っていたはずだ。今日も通っていたかどうかは分からない。残る琉球大学の論文対策だけだったはずだ。

確か明治学院大学や武蔵大学を今月中旬の15日や16日に受け、ICUを受け、その合間に奈良の天理大学を受けた。合格発表のたびに、単純におしゃれであこがれていた西東京あたりの大学は関東学院大学以外すべて落ちた。この時点で、奈良の天理に行くか、琉球大学に行くかの実質二者択一となった。

天理大学の受験には飛行機で京都に行った。

天理大学には徐龍達(ソ・ユンダル)先生という父の友人がいて、いや徐先生は京都の別の大学の先生だったか。たしか徐先生の家で一泊し、翌日天理大学の指定する奈良の旅館で一泊したかもしれない。旅館は相部屋で、同室だった受験生がいた。ろくに勉強してないような奴だった。こんな奴と一緒にこの大学に通うことになるのは嫌だなとも思った。

天理市は話には聞いていたが、美しい街だった。朝早く、市民はみんな外で道を掃き掃除している。どこもチリ一つ落ちてない街だった。むしろ異様さを感じた。

大学は赤を基調とした瓦葺きの美しい建物。隣は天理高校で、春の選抜を前に野球部が練習していた。街じゅうが応援していることは、横断幕で分かった。

とにかく寒かった。外国語学科なので英語のヒヤリング試験もあったが、総じて簡単だった記憶がある。

徐先生は僕を歓待してくれた。家ではすき焼きをごちそうになった。取り鉢に生卵を溶いて食べる方法を、この家で初めて知った。僕と同年代の息子がいたが、よく覚えていない。奥さんが寝室の枕元に水入れとコップを置いてくださったのも、初めてのことで意外だった。家は奈良か京都か忘れたが、この地方では冬の夜は喉が渇くらしい。僕は夜中喉は渇かなかった。



帰りの京都の空港で、何か父にお土産と思い、たばこ店を覗くと珍しいのが置いてあり、「雅」というのを一つだけ買って帰った。父はよくピースを吸っていたが、銘柄を一つに決めているわけではなく、外国たばこも好み、ドイツのゲルベゾルテは来客者に勧めていた。専売公社ではほかにホープ、フランスのゴロワーズ。書斎ではいつも珍しいたばこの箱があった。アメリカたばこは見たことがない。ソ連のたばこは僕が吸うようになってから帰省時に見つけて吸ったことがある。葉の分量は極端に少なかったがとても旨かった。



  


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2014年02月24日

34年前の今日~2月24日

1980年2月24日 19歳
2014年2月24日

国立大学の受験先を琉球大学に絞ったのはいつだったか。1月13.14日に行われた共通一次試験の時にはすでに決めていたのは覚えている。文化人類学に興味を感じたのは、浪人の一年の間だったのか。現役時代はなんとなく社会学のある大学を片っ端から受けて落ちまくった。あまりに多くを受け、受験料だけでも相当かかった。父などは顔には出さなかったが、内心冷や汗だったろう。

高校時代からインド音楽に興味を持ち始め、瞑想の真似事をしてみたりウパニシャッド哲学の本を意味も分からず読んだりした。決定的だったのはラヴィ・シャンカールの「日本へ捧げる曲」だった。涙か止まらなかった。ちょうど祖父が他界した後で、仏壇の前で一人オイオイ泣いた。シャカと祖父があの世で一つになったイメージを描いていた。



そしてちょうどその頃、やはりNHKだったが、番組を見て岡倉天な心の「Asia is One」という日本文化の捉え方に出会い、共感した。なぜあれほどまでに共感したのか、父方が朝鮮植民者の引き揚げ家族だったこともあっただろうとは思うが、僕にとってのもっと大きかったのは幼少期の音楽的体験ではなかったかと思う。

予備校時代、テキストに内村鑑三の「宇宙の中心に大琴あり」の一文に出合ったことも大きかった。インド音楽の通奏低音と、それを根にさまざまに万華鏡のごとく繰り出されるラーガの数々は、僕の中では同じ「宇宙の姿」として捉えることができた。
また、小泉文夫のFM番組で世界の民族音楽を聴けたことも影響していたと思う。

アジアの音楽へぐいぐい引っ張られる感覚は、他の何にたとえられよう。自分の出自探しに近い。だからアジア文化やアジア思想にも興味を持ち、やるなら文化人類学、アジアの玄関口・沖縄を足掛かりにしようと思ったのだろう。そこから東南アジアが見えるはずだと。
  


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2014年02月18日

34年前の今日~2月18日

2014年2月18日
1980年2月18日 19歳

琉球大学への入試書類を郵送で請求し、送られてきた書類を見ると、試験会場は沖縄国際大学となっていた。琉大より少し離れているらしいことと、新キャンパスに近いらしいことも分かった。首里の琉大から沖国までの地図も付いていた。

地図に「我如古」という地名を見つけたとき、前にNHKで見た伊佐千尋の小説(ドキュメンタリー)「逆転」を思い出した。確か星条旗を破り捨てた青年たちが米兵に捕まり、軍事裁判で伊佐が弁護し、無罪を勝ち取った出来事。しかしその後被告の一部が結局刑罰を受けたらしい。

父の本棚で、後になってその小説を見つけた。父の膨大な量の本の中で、沖縄関係本は少ない方ではあったが、富村順一「わんが うまりや 沖縄」や大城立裕「カクテルパーティー」、それに沖縄人ではないが竹中労の「わが??に立つ」などがあった。富村の本はかなり異色で、高校生の頃だったろう、抜き出して読んでは問題意識が芽生えた。

再現ドラマでは伊佐自身が本人の役で出演。法廷内で英語で弁護したそのままを演じていた。長い英語の台詞が続いたことを覚えている。

被告の青年の一人が「我如古」姓だった。法廷ではアメリカ人が「ガニコ」と発音していたので、この発音が正しいと思っていた。



沖縄の「入試旅行」計画では、当初琉大で試験があるとしか考えていなかったので、首里のホテルを取った。父が友人を通じて宿泊先を調べてくれたのだと思う。もし落ちても僕が沖縄をなるべく楽しんで帰って来れるよう、一泊目は都ホテル、試験後の二泊目はグランドキャッスルという、最高に贅沢な旅程を組んでくれた。

試験内容は小論文の一科目だけ。飛行機の往復、宿泊、会場を往復するタクシー代。これだけのために親はかなりの旅費をはたいてくれた。しかも試験翌日にはタクシーで南部巡りまで。確かに、当時の僕には滅多に行ける所ではなかったし、沖縄観光は半ば外国旅行の気分だったから。

あちらの気候はどうなのか。年中半袖の南国というイメージがあったが、市川学園の知念先生は「行ったら分かるが冬も寒い。暖房を持たないので沖縄の人が冬一番寒い思いをしているかもしれない」と言っていたので、こちらの春着ぐらいの準備にしようと決めた。確か黒いワイシャツの上にフレッド・ペリーの草色のベストだ。今考えても、物凄く変な格好である。しかし、実際に入学してからも当分はそんな格好だった。

  


Posted by URUMANINGEN at 00:00Comments(0)34年前の今日

2013年08月25日

断絶

今朝、食卓に行ってみると
テレビがついていて
24時間テレビの中で
しゃかりが「谷茶前」を
歌っているところだった。

とたんに悲しい、諦めに似た気持ちになった。
こうして沖縄の音楽文化は死んでいくのだと。
断絶の始まり。沖縄が沖縄と別れていく姿。



しゃかりが嫌いなわけではない。
明るい中にほんの少しの悲しみをたたえた
ちあきの声は魅力的で、むしろ好きな方だ。
しかし、谷茶前を彼女のスタイルで歌ってほしくない。

谷茶前は雑踊の演目のひとつ。
歴史を遡ってもせいぜい明治期の
いわばセミクラシックである。
沖縄芝居と大衆芸能の黎明期
若い男女のエロチシズムを
速いビートに合わせてサラッとかわす
計算しつくされた秀逸な娯楽作品だ。



ちあきの声は独特だ。
子どもに優しく諭す母のような歌声は
沖縄民謡であれば
「てぃんさぐぬ花」のような教訓歌
または童歌が似合う。
全国放送で聴かせる「谷茶前」は不似合だった。
これを「変だ」と多くのウチナーンチュが
思わないのだとしたら、余計に悲しい。

文化は川の水のように流れていく。
流れが滞ると、ため池と同じで
とたんに腐敗が始まる。
だから絶えず変容し
破壊と創造が
繰り返されなければならない。

しかし、だからといって
何でもいいというわけではないだろう。
音楽には、その音楽を支えてきた「場」があり
その「場」にいる人々の生活や喜怒哀楽があった。
音符や歌詞の表面だけコピーして
現代生活の娯楽とするには無理がある。



ウチナーグチの意味すら分からず
その音韻の珍しさだけを追いかけ
持ち歌として披露する歌い手が
沖縄出身の歌手の中からも現れている。
「沖縄の文化を伝えたい」と口では言いつつ
先祖に恥をかかせることを
自ら進んでしてはいまいか。

沖縄伝統音楽の殻を破ってほしい
流派や門下など、もともと沖縄になかった
がんじがらめの制度から
歌や踊りを解き放ってほしい
若い人たちには期待しているのだ。



けれど、その歌の生まれた背景は
受け継いでいってほしい。
そうしなければ、沖縄音楽は
今後も日本商品のひとつとして
使い捨てられ続けていくしかないだろう。
  


Posted by URUMANINGEN at 13:27Comments(0)修行の日々

2013年06月28日

クスリを使わない理由

ちょっとした夏風邪と思っていたのが、インフルエンザだったらしい。
ことしの流行のひとつで、長い人は20日もかかるという。
1週間以上になるが、37度台後半の熱は
それ以上上がることはない。
動くのは辛く、かといって
一日中横になっているわけにもいかず
半日ほど出勤してはダウンの毎日を過ごしていた。



自分がインフルエンザにかかることは
自然界がもたらす自浄作用だと思い
ここ数回はできるだけ西洋医学にたよらず
体の中をウイルスが静かに通り過ぎるのを
待つよう心掛けてきた。

長期の静養は、今の社会では許されないこともある。
仕事は何とか出勤してつなぐことができた。
しかし、僕は今週末に久しぶりのライブを控えている。
しかもジャズのステージで、すべて初めて聴く曲ばかり。
僕にとって若葉マーク。
おじさんだから枯葉マークか。
発表会に出る小学生のような心境だ。
さらわないといけない楽譜もあるのに
アドリブが回ってくるから
楽器を吹きこなしておかないといけないのに
まったく練習ができない。

移調楽譜だけは最低書いておきたいが
身体は相変わらず言うことをきいてくれず
紙に書くという簡単な動作すらできない。

仕方ない、解熱剤でも飲むか。

1時間後、汗が吹き出し、体が軽くなった。
切れた電池はいとも簡単に復活だ。
譜面はあっけなく書き終えた。
あとは残り少ない日数でどれだけ楽器に触れるか。
できなくても運命だ。
恥をさらしても仕方ない。



ことし80歳を迎えた
大好きなウェイン・ショーターの楽譜を書きながら
同年代でありながら40歳の若さで死んだ
ジョン・コルトレーンを思った。
死因を確かめようと携帯で検索すると
やはり麻薬中毒で
いったんは克服したものの
禁断症状から逃れるために酒をあおり
肝硬変か何かで亡くなっている。



ビーバップからハードバップ、モード、フリーへと
当時のジャズを聴いていると
ほんの10年ぐらいの間に急激に成長している。
新しい音を求め生き急いでいる感じだ。
その中でしのぎを削るミュージシャンたちは
創造のスピードを緩めようとはしなかった。
そこに麻薬を選んだに違いない。
天才的なプレイヤーの多くは早死にしている。

今まで体一つ動かせなかった僕が
たった一錠の薬で起ち上がり
思ったことを実行できる。
クスリの力は恐ろしいものである。
その代わり、そこで得られた時間のツケが
後で回ってきそうで怖いのである。



ジャズは死んだ、と人は言う。
僕もそう思う。
現代のジャズはほとんどが懐メロか
先人たちの残した手法の検証作業だ。
新たな創造は民族音楽を導入することで
延命を図っているように見える。

彼らの遺したジャズは
とてつもなく大きな葉に残した
一条の虫食いみたいなものである。
その周辺には、まだまだおいしい葉っぱが残っている。
しかし彼らは周囲に脇目もくれず
葉先まで一気に食いちぎって
そのまま逝ってしまった。



クスリに頼らず
人生の歩みに合わせ
音楽の歴史も同じように進んでいけばいいのに、と思うのだ。  


Posted by URUMANINGEN at 19:48Comments(2)修行の日々

2013年05月29日

片道切符

バンドが解散して数日間は
悲しい日々だった。


この悲しさはいつ以来だろう。
娘が内地に旅立ったときと同じだ。
黙って立ってるだけで
涙が出そうだった。

でも、気持ちの切り替えは
意外と早くできた。
いつもの練習日を
とにかく何かで埋めよう。
いや、毎晩埋めないと気が済まない。
そうだ、今までできなかったことをしよう。
セッションに行こう。
大好きなジャズもちゃんとやろう。
ブルースは肌が合わないが
セッションには行こう。
シャープがいっぱい付いてるから
楽器の練習にはなる。
週末には行きつけのジャズ喫茶で
仲間と気楽にスタンダードをやろう。

修行と名付けたセッション旅が始まった。
夕方には楽器をカブ号の荷台に載せ
今日はコザヘ
明日は那覇へ

音楽に国境はないといいながら
ステージの両脇から2mぐらいありそうなアメリカ人に挟まれると
やはり緊張する。
百戦錬磨のジャズメンがパラパラ吹き終えた後
「次ソロお前の番」
と、吹いたことのない曲を回され
知ったかぶりで吹くドキドキの夜。

こうして3週間が経った。

「来月末ハンコックとショーター曲集やるからさ
シモンさんも何曲か吹いてよ」

那覇で大好きなジャズピアニストが
昨夜、夢みたいなオファーをくれた。
最も尊敬する2人の巨人の
ほとんど演奏される機会のない
名曲を演奏するチャンスが
30年経って巡ってきた。

生半可にはいかない。
自分などにできるだろうか
という不安でいっぱいなくせに
これは僕にしか演奏できない
という信念が不思議と湧いてくる。
彼らの音楽は確かに単純ではないが
受け継ぐ者としての自負はあるのだ。














音楽は限りない挑戦だが
戦いではない。

遅すぎた春に
新芽が顔を出したようだ。
  


Posted by URUMANINGEN at 22:03Comments(2)修行の日々

2013年05月25日

夢で待ってたの

「夢で待ってたの 夢で待ってたの」
きょうは朝寝坊。
目覚める間際、まだ夢の中にいたとき
男声の歌が聞こえていた。
テンポ70、フラット3つ。
オーケストレーションもはっきりしている。
わずか4小節だけど、わりといい感じだ。

こんなときはすぐ五線に書く。
僕の夢は超揮発性。すぐ忘れてしまうから。
編成は男声メロディーとベースラインに
ストリングパッドとコードだけ。
覚えているものをすべて書き留めておかないと
二度と再現できなくなる。
夢とは無情なもので
夢の中で譜面をつけてしまい
起きたら何も残ってない、ということもあった。
今は小さな五線ノートをポーチに入れておき
いつでも書けるようにはしているのだが
なかなか埋まるものではない。

…で、風呂に入り朝食を取って少しの間テレビをつけ
部屋に戻って改めて読み返すと
さっきまで宝物のように感じていた音楽が
あれ、どんな歌だっけ。

またか。
こうして夢で聴いた小さなモチーフを増やしていっても
それはあくまでも夢の断片。
起きている間にエンディングまでたどり着くことは、ほとんどない。

唄を忘れたカナリヤ。
作曲を夢に頼っているようでは、だめなんだね。
でも、頭で音符を探して作るような作業は、作曲とはいえない。
真空に手を伸ばし、掴んだらそこに歌が入っている
作曲家というのは、それができる人のことだ。
僕が作曲の師匠と呼んでいるおじいは
「とにかく書け、書き続けるしかない」と言っているが
そうなのかもしれない。

夢で待っているのは
不思議の国のアリスのページを無作為に開いたときのように
断片的で、分裂的な、ここちよい世界。
ひとの一生が、もし夢を見るだけの一生だったら、どうだろう。
人間としては空しいだろうね。
でも本人はある程度満足なのかも。
死後の世界があるとすれば、そんなものなのかもしれない。
  


Posted by URUMANINGEN at 13:27Comments(0)修行の日々