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2014年03月31日

34年前の今日~3月31日

1980年3月31日 19歳
2014年3月31日

12年間住んだ千葉の家を離れ、今日は朝早くから身支度し、沖縄に行く準備をした。

親元を長く離れる経験は今までない。未知の世界。でも不安はない。前しか見ていなかった。

両親が見送る中、玄関を開けて外に出ると、大粒のぼた雪が面白いほど大降りに降っていた。3月も末だというのに珍しい。最後にお前に雪を見せてくれたな、と父が呟いた。

一人っ子で喘息持ち、生まれてこの方、何をするにも親や家族がお膳立てしてくれた。かなりの贅沢をさせてもらったし、好きなことはさせるチャンスもたくさんくれた。それが自分にとってかなりずれている時も、嫌な顔はせず、いつも「ありがとう」とだけ言っていた。ひどい息子である。反抗期もあったが、抗うということはそれほどしなかったように思う。

半面、このままでは自分を見失ったまま大人になってしまうのではないか、親の言うまま、親の言うことをいつも飲み込むだけの生き方しかできないのではないかと、自分の将来が心配だった。

門の前で見送る両親を背に、悪いけどウキウキした気持ちで駅へと歩いた。
といっても、毎月親が欠かさず仕送りし、父は「アルバイトする必要ないから勉強してこい」という主義だったので、自立とは正反対、脛かじりっぱなしの生活には違いない。小田実の本の背表紙「何でも見てやろう」の言葉を何度か思い出しながら飛行機に乗った。
人の背丈ほどあるシタールも、当時は手荷物で普通に積んでくれた。全日空のスカイメイトも、受験時から持っていた。

34年前の今日~3月31日

受験生としてついこの間降り立ったばかりの那覇空港に、今日は住人として降り立つ。もう慣れたつもりでいた。ここからはもう親の手を離れて自分の意志で。到着ロビーではあのタクシーの客引きの誰かにでも捕まっていこう…

しかし、タクシーより先に、別の人が僕を待ち構えていた。

到着ロビーに、手書きで僕の名前を書いたカードを広げて待っていた夫婦らしき姿を見つけた。この人たちは誰? なぜ僕の名前を持っているの?

不思議なまま「僕です」と近づくと、「おめでとう。ようこそ沖縄へ」と歓迎してくれている。「サトヤマです」と聞こえたが、心当たりがない。知らないのは僕だけで、誰かがこの人たちに迎えさせる手筈ができていたのか? それとも僕が何かの段取りを聞き忘れたのか?

何故かその時僕は、分かっていたようなふりをして、夫婦の車に荷物を積み、一緒に乗り込んだ。この「分かっているふり」は、いつから身に付いた癖なのか、34年経ってもなかなか抜けない。

「どうですか、暑いでしょ」「はい暑いですね」
日射しが強く感じた。
丸っきり知らない人同士の会話というわけではない。この親切なお二人と自分の関係をどうやって探り出そうか、車の中でそんなことばかり考えていた。

ちょうど昼時。車が着いた先は、決めていたのだろう。辻町の「ジャッキーステーキハウス」。あの鉄板焼きステーキをご馳走してくれた。ここまでお世話になるともう「あなた方は誰ですか」とは絶対に聞けない。どうしよう。
しかし、きっかけが向こうから来た。
「北村は時々お家に伺っていますか?」。
「北村さん…ああ、はい」
確か父の友人で、近所に家があり、いつも和服姿の女性「北村さん」の姿が思い浮かんだ。この方は北村さんの娘で、沖縄に嫁いだらしいことがなんとなく分かってきた。
ただし、僕は自分の家と北村さんとの関係をよく知らない。今もよく分かっていない。北村さんの娘が沖縄に嫁いだことも、この時初めて知った。でも僕がそれを知らないことが分かったら、両家にとって良くないと思い、知っているふりをした。
「サトヤマ」夫妻がこうして僕を迎える段取りをしてくださった経緯など、細かいことは結局聞けずじまいだった。

それからは話が弾んだ。ご主人は音楽教師でジュニアオーケストラを引率していること、奥さんはバイオリンの指導者であることが分かった。僕がバイオリンを習っていることも知っていた。その後、県内初の子どもたちの弦楽アンサンブル「中城ジュニアオーケストラ」団長の佐渡山安信・真理夫妻だったことが分かり、その活躍に驚いた。

佐渡山さんの車で、僕の受け入れをしてくださる首里の知念さん宅へ行き、3日間ほどそこへお世話になる。木造の古い家で、「貧乏だから何もお構いできないけど、心は尽くすさねー」と、言った通り、心を尽くしてくださった。

知念さん夫婦は、最初にウチナーグチを教えてくれた人になった。「アミ」は雨、飴は「アミグヮー」。いくつかの言葉を教わった。

夕飯は、決して豪華ではなかったが、とても心のこもったものだった。碗にジュウシイが入っていておいしかった。その碗は厚手の壺屋焼で、とても気に入り、アパート暮らしを始めるにあたって、ぜひこれを貸してほしいと無理やり頼み込み、借りた。それ以来、この碗は30年近く僕の毎日の食事で飯を盛ってきたが、とうとう返すことができないまま、ある日自宅で割れた姿を見たときは、辛かった。




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Posted by URUMANINGEN at 22:00│Comments(0)34年前の今日
 
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